自己紹介と音楽歴

こんにちは。作曲家の村本晋也です。このページでは私の自己紹介を踏まえ、これまでの音楽歴について紹介しています。今の私の音楽を形作っているものは何か?また海外渡航のきっかけになった事など、時系列でお伝え出来ればと思います。

音楽への目覚め

私は物心付いた頃から音楽が好きで、親から与えられた童謡のカセットテープを毎日擦り切れるまで聴いては、歌ったり踊ったりしていました。それを見かねた親がYAMAHA音楽教室へ入会させたのが、私の音楽暦の始まりです。

YAMAHAではグループレッスンの先生がとても教育熱心な方で、入会して早々に作曲の課題を与えられ、私は「オオカミ」という名のピアノ曲を作曲し、発表会で披露。その高度な教育の甲斐あってか、私の和声・ソルフェージュ能力はみるみる内に上達し、幼稚園の年長になる頃には習いたての「きらきら星」をクラスの皆が歌うのに合わせてオリジナルの伴奏付きで弾いたり、また親曰く自宅の上の階の人が弾く「人形の夢と目覚め」をかすかに聞こえる音から耳コピで弾いていたそうです。

しかしそんな中、YAMAHAで同時に受講していたピアノの個人レッスンの方は散々たるもので、特に小学校へ上がってからは好きでもない練習曲を“お勉強”するのがとても嫌になり、先生に出された宿題はいっさい練習せず、時折親に買ってもらう全音ピアノピースで好きな曲を弾いて楽しんだり、気の向くまま即興をして毎日ピアノで遊んでいるだけ。もちろん先生には髪をひっぱられるほど酷く叱られ、とある練習曲集の1番初めの曲を半年以上も合格を貰えずに泣きながらやらされていた記憶があります。

小中学校での活躍とピアノコンクール優勝

その後、小学校も高学年になると学校での活躍の場が格段に増え、特に5・6年生の時は音楽の先生の特別な計らいで、合唱の伴奏だけでなく学年や全校の行事等でリコーダーや吹奏楽とコラボするなど、事あるごとにピアノを弾く機会を与えられました。また当時の私はボーイソプラノと言われるほど高い声が容易に出せたので、合唱祭でソロを担当するなど“歌う”面でも大いに活躍。今思えば、この頃が最も幅広く活動していた時期だったのかもしれません。

中学校へ上がり変声期を迎えると、歌う事へのアドバンテージは無くなりましたが、“ピアノを弾く男子”として一定の活躍の場は与えられました。私が通っていた中学校は不良グループがいて荒れていた事もあり、当時の音楽の先生は非常に苦労されている様子でしたが、1学年10クラスもあるマンモス校だった為、年一回の合唱コンクールはそれなりに盛り上がりを見せ、当然ながら私は3年間ピアノ伴奏を担当。途中クラス替えがあったにも関わらず、3年間で最優秀賞2回、優秀賞1回という超好成績を収めた事は今でも誇りです。

ピアノの方は既にYAMAHAを辞めて個人の先生に就いていましたが、YAMAHA時代と違ってある程度は真面目に練習する様になっていたので、その甲斐あってか中学3年生の頃には千葉日報社主催の「千葉音楽コンクール」で優秀賞(同率第1位)を獲得。これが生涯で唯一のピアノコンクール受賞歴となりました。

吹奏楽、ロックバンド、大学での苦悩、作曲へ入門

高校では吹奏楽部に所属し、私はバリトンSaxを担当。いつも銅賞ばかりのC級バンドでしたが、2年生の時にコンクールの課題曲で演奏した巨匠 福島弘和氏の朝日作曲賞受賞作品「道祖神の詩」をはじめ、「My Favorite Things」や「宝島」などの名作に触れた事は、今でも自身の大きな糧となっています。

吹奏楽部は2年生の途中で辞め、その後は仲間内で組んでいたロックバンドのメンバーに誘われて、キーボードのパートを担当。当時人気だったGLAYやLUNA SEA等を演奏しましたが、どうもエレキギターがジャンジャン鳴る音楽は好きになれず…。しかし唯一GLAYの「ここではないどこかへ」だけはお気に入りのナンバーで、歌詞の趣や音楽の奥深さは今でも感銘を受けるほどの名曲です。

その後進んだ武蔵野音楽大学では、ピアノの先生の助言に従ってピアノ科へ入学。しかし単にピアノの演奏技術だけを競い合うカリキュラムに嫌気が差し、モチベーションが上がらない為か思う様な成績が残せず、また唯一期待していたソルフェージュの授業では私が幼稚園の頃にYAMAHAで習った様な事をただ永遠と繰り返すのみ。

流石にこれではいけないと思い、4年生になる直前にピアノの先生に紹介された作曲の井上淳司先生の門を叩きました。井上先生は武蔵野音大ではなく東邦音楽大学の准教授をされている方で、和声や対位法の基礎を叩き込まれた後、先生の楽譜出版実績もある教育芸術社を紹介され、そこで楽譜校正のアルバイトをしながら定期的に合唱作曲のセミナーを受けるという、作曲学習者にとってこの上無い最高の環境が与えられました。この頃の経験が後の朝日作曲賞受賞に繋がったのは言うまでもありません。

オーケストラ事務職から作曲家へ

大学院修了後は、大学の就職課の紹介で故 堤俊作氏の率いるオーケストラ(Royal Camber Orchestra)の事務局に入社。堤氏は日本のバレエ業界に広く精通している指揮者であった事から、オーケストラが請け負う仕事も必然的にバレエの伴奏がメインとなり、現場の担当だった私は日頃からよくゲネプロ等で様々な演目のバレエを鑑賞する機会に恵まれました。

くるみ割り人形、眠れる森の美女、ラ・シルフィード、コッペリア、ドン・キホーテ、ライモンダ、ジゼル等々…。また東京のみならず日本各地のコンサートホールへ出入りしていたのもこの頃で、これが後に世界のオペラ座巡りをするきっかけともなりました。

事務局に勤めている間も作曲への熱が冷める事は無く、幾つかコンクールへ挑戦した内、2010年にはフルートとピアノのための作品で「第2回広島作曲コンクール」第3位入賞。当コンクールは後に“東京かつしか作曲コンクール”と名を変えるも、あまり知られていないマイナーなコンクールですが、同期の入賞者は後の現代音楽新人賞や日本音楽コンクール第1位など優秀な人ばかりです。

事務局退職後は、知り合いのツテで各方面からピアノ編曲を請け負うなど、作曲活動を本格化。自身の作品作りにも力を注ぎ、2015年、2016年には相次いでPTNA(ピティナ)新曲募集の課題曲候補に選出。翌2017年にコンペティション課題曲に採用され、新曲課題曲作品賞を受賞。受賞作品はカワイ出版の楽譜に掲載されています。

海外渡航で得たもの

ところで私が海外へ行く様になったのは、オケの事務局を退職してすぐの頃。初めの内はただ何となく興味本位でウィーンやプラハ等のオペラハウスを巡るだけでしたが、次第にもっと一流の音楽に触れる機会を得たいと考える様になり、その先駆けとなったのが2015年開催のショパン国際ピアノコンクール。

言わずと知れた世界最高峰のピアノコンクールは、1次予選の段階から選りすぐりのヴィルトゥオーソ達が出場する事で知られていますが、実際にポーランドのワルシャワへ行って聴いてみると、言葉では言い表せない空気感たるものを感じ取る事が出来、それは私の音楽的感性を育むのに十分でした。

テクニックや音質だけではない人を引き付ける力、それが演奏のどこから滲み出るのか、それを鑑賞のテーマにしてその後もコンサート巡りを続けていった結果、2019年のチャイコフスキー国際コンクール(ロシア・モスクワ)へ行く頃には、第1位と第2位の僅かな演奏の違いを肌身で感じ取る事が出来る様になっていました。

また世界の様々な国を旅した事で、自分と異なる価値観や宗教観に対して免疫が付いた事も収穫の一つ。日本の常識=海外の非常識とは良く言ったものですが、国や地域が異なるだけで善と悪が180度変わる…、そんな究極とも言える多様性を受け入れられる心を手に入れると、物事を多角的に捉える力が自然と身に付くものです。

立場が変わればその分だけ答えが存在する、その道理を深く学んだ事で自身の音楽の幅も広がったせいか、2023年には≪混声合唱とピアノのための組曲「月の世界へ」≫にて第34回朝日作曲賞を受賞。今後の音楽活動に向けて、非常に大きな一歩となりました。

朝日作曲賞を受賞して

こうして自身のこれまでの経歴を振り返ってみると、私の音楽観は世間一般のいわゆる“作曲科”の人たちとは一線を画すもので、その分これまで“仲間”というものにあまり恵まれませんでしたが、自分の信念を貫き通すというのが私のモットーであり、朝日作曲賞を受賞した事でその思いに間違いは無いという確信を得る事が出来ました。

芸術の真髄を極めるだけの作品ではなく、誰もが口ずさめる素敵なメロディ、そして自然と体が動き出す様な躍動感のある音楽を少しでも多く生み出していきたい、その一心でこれからも作品作りに取り組んでいく所存です。